2011年9月12日月曜日

グループ若葉祝福を受ける

8月19日、クリチーバ日本総領事から今回の太鼓の優勝、yosakoiの入賞に対して公邸に招待されました。
サンパウロ新聞に掲載された文をそのまま掲載します。

若葉太鼓と若葉よさこいを招待 クリチーバ総領事公邸で栄誉祝福 11/09/01 (11:18) Icone_imagem

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優勝した若葉太鼓グループ

 【既報関連、堀内登クリチーバ支局長】在クリチーバ総領事館の山口登総領事は8月19日夜、「クリチーバ若

葉太鼓」及び「若葉よさこいソーラン」グループを同公邸に招待し、夕食会を催した。これは去る7月31日に聖州プレジデンテ・プルデンテ市で開催された第8回全伯太鼓選手権大会で、南パラナから参加しジュニア部門で優勝した「若葉太鼓」の今日までの研さんと努力をたたえたもの。

また同日に聖市で行われた第9回ブラジルよさこいソーラン大会の大人の部で3位に入賞した「若葉よさこいソーラン」一行も招待を受けた。 なお、ジュニア部門(12~17歳)で優勝した若葉太鼓(12人)は来年3月25日、群馬県前林市で行われる全日本選手権大会にブラジル代表として出場する予定だという。

山口総領事は「皆さんおめでとうございます。家族や周囲の人たちに支えられながら、ブラジルに日本文化を広げるために日々努力、練習や活動をしている皆様に感謝します。私たちはこれからも応援をしていきまますので、今後もさらなる技術を高めていくように頑張って下さい」と入賞の快挙をたたえ激励した。 同夜は若葉太鼓グループのほか、石井ジョルジ文化援護協会会長、同平松評議長、村上調整役夫妻及び原ルイ州都市圏調整局長ら約50人が出席して、同グループの栄誉を祝福した。

若葉太鼓がクリチーバ市民の前に姿を見せたのは、2004年初め頃。1991年に本庁からブラジルに派遣され、ロンドニア州で金光教の布教活動の後、99年にクリチーバ市に移転した梶原勝行・佳代夫妻の子息たちが初期のメンバーだった。

寒風が吹きぬける市内の日本公園で懸命に和太鼓の練習に励む5人の少年少女たちの姿が市民の目に触れ、その後、山脇ジョルジ文協会長(当時)の目にも止まった。それ以来、同協会の傘下団体として文協の空場所を利用して練習に励み、文協の各種行事やほかの公式行事にも参加するようになった。

 若葉太鼓の育ての親である梶原さんは教えの一つとして当時、「最近の日本では色々な面で恵まれ過ぎ、平和な生活に慣れて意欲や目的を持てない少年少女た ちが増えている。教会では若葉学校の活動を通じて、それぞれが自分の心に確立していくことを目指した取り組みをしている」と語っていた。

5人の兄妹から始められた若葉太鼓の仲間も年々希望者が増え、今では50人近いグループに成長した。文協や周囲の支援を受けながら期待通りの努力を重ね、研さんを積んできた。
一行は総領事公邸からの初めての招待に感動しながら歓談し、明日への希望を燃やしながら楽しいひと時を過ごしていた。

2011年9月1日付

2011年8月3日水曜日

EH! CAMPEAO!!

7月31日は記念すべき日になりました。
第8回ブラジル太鼓選手権がサンパウロ州の奥地にあるプレジデンチ・プルデンチ市にて行われ、同日、第9回よさこいソーラン大会がサンパウロ市のVia Funshalを会場に行われました。
グループ若葉は、そのどちらにも参加しました。

これまで、連日の猛練習に子供達は
勿論のこと、家族が一丸となって協力してくれ、また、ニッケイの方たちに練習の場所を借りたりして、おかげを頂きこの日を迎えることが出来ました。

私は
、よさこいソ-ラン大会に随行しました。
沢山の競合がそろって競う中、一人『若葉の演舞はすばらしい』と感じていました。
これまで、子供達がそれぞれの意見を出し合い、今年は、『大和心』をテーマに曲と歌詞、そして振り付けが創られ、当日を迎えました。

12時からと17時からの演舞に私なりに評価をして、「これはいけるかも?」と思ったのですが、意外な展開もありましたが、おかげで第3位になりました。
子供達みんなが、その喜びに涙する中で、またもや吉報が飛び込んできました。

「若葉太鼓が一位になったああああ!!!」

「えーっ!ほんとう!すご~い」
なんと、太鼓は一位に輝き、来年は群馬県前橋市で開かれるジュニア太鼓選手権に招待され、日本に行きます。

驚きはまだまだ続きます。
それを聞きつけたクリチーバの日本領事館、総領事が是非、若葉のみんなを夕食に招待したいと言うことになり、喜びの波紋が広がっています。

日本の皆さんも楽しみにしてください。
Youtubeでよさこいの演舞と太鼓の演奏を見られますので、ご覧ください。





2011年6月15日水曜日

記念の日

6月14日は、私たちがブラジルに到着した記念の日です。
早いもので20年になりました。

そこで、この週末には『移民祭り』があり、忙しいのですが、家族とお手伝いに来て頂いた人たちでシュラスコをしました。
子供たちに、よくもここまで我慢してついて来てくれたことに一言お礼が言いたくて、お礼の言葉をみんなに伝えさせて頂きました。

日本語の話に家内が『おかしい』と最近よく言われるので、多分おかしい表現が沢山あると思いますが、辛抱して読んでください。

おれいの言葉

「子供たちへ」

「今日(2011年6月14日)は、私たちがブラジルに来て20年の記念の日です。
これから、どれだけお生かし頂き、御用に使って頂けるかは分かりませんが、子供たちに伝えておきたいこと、また、お父さんがどういうことを考えていたかを知ってもらおうと思い、みんなにお礼の気持ちをこめて言葉を述べてみたいと思います。

1991年6月14日、私たちはサンパウロ、グァルーリョス空港へ降り立ちました。
長男佳行9歳、次男光徳7歳、三男安正4歳、4男宙2歳。そして佳代のお腹に長女の久保美がいました。
それから、モジダスクルーゼスの田代さん・ジョアキンさん兄弟のコンビに乗って、ビリグイ教会へ向かいました。

道中、サンパウロ支部の方たちが準備してくださった弁当を頂くのに道路脇によって食事をいただきましたが、近くに若者数人が笑いながら話をしているのを聞きながら、そして真っ黒い犬が吼えるのを聞き、とてつもなく不安になったのを覚えています。

ビリグイ教会に夕方、無事に到着。それからビリグイのご信者さんがたがフェスタをして下さいました。
その時、私はご飯を頂きながらフォークの間からご飯がこぼれるのを、中風が出たのかと思いました。実は、その当時、ビリグイでは日本米を頂くことはなかったのだと後で気がつきました。

ビリグイで3ヶ月間お世話になり、9月11日、私たちの布教地であったロンドニア教会へ向かいました。
ポルトベーリョからタクシーに乗ってアリケーメスへ向かいました。道中はジャングルを切り開いたような中にでこぼこ道が限りなく続いていました。
本当にここに来て良かったのだろうかと、限りなく続くまっすぐな道が余計私を不安にさせていました。
子供たちは、また佳代はどんな気持ちだろうか。不安になっていないだろうかと、後に座っている佳代の様子を伺うと、何とぐっすりと眠っていました。

途端に、私の心に安心が生まれました。
アリケーメスの街に入って、タクシーの運転手が住所を手がかりに道で遊んでいる子に家を尋ねたら、すぐ近くでした。不思議なことに、その子は、現在もクリチーバで信心をしている片山さんの息子、マルセルでした。

言葉も何も分からない中で、子供たちが元気に、カルチャーショックと言うようなものも感じないで、ブラジル社会に溶け込んでくれたことに心からお礼を言いたいと思います。

アリケーメスでの8年間。その間、なれないブラジル社会に憤りを感じることも多々あったけれども、いつも初代が教えてくれていたことを思うと解決がつきました。
その中には、久保美が死にそうになったこともあり、また、光徳が木から落ちて腕を折ったことがあったり、大河は、どういうわけか腕や脇に膿がたまったりと思いもかけないことがありましたが、おかげでみんな元気に、また素直に育ってくれました。
神様を杖につき、お縋りせねば通れないことばかりでしたが、いつも感動の中での8年間であったと思います。

そして、ブラジルにどうでもポルトガル語による教典が必要であるとの熱願が、クリチーバへ来ることになりました。
その働きの中には、アダルベルトの一言も神様の働きの中にありました。

クリチーバでは、若葉学校を創設して、子供たちが素直に協力してくれ、こういう大きなことになるとは思ってもいませんでしたが、まだ、不十分ではありますがおかげを頂いています。

これからも、是非、大きな願いを持って世の中のお役に立つ人になってもらいたいと思います。
それぞれの道は違っても、願いは同じところに持たせて頂きたい。お父さんは、このブラジルに和賀心時代を創るために来ました。もちろん、この願いはまだまだ少しも成就していませんが、少しずつ金光教を理解してくれる人が出てきたことは事実です。

みんながこれから色んなことに出会い、色んな困難にぶつかることもあるだろうと思いますが、そんな時に、是非、人間としての原点に立ち返ってください。

私たちは何をしにこの世に生まれてきたのだろう。どこに向かっていこうとしているのだろう。

私は、これからもブラジルの明るい将来のお役に立つために一生懸命、成り行きを大切に、神様の働きを頂きながらお役に立たせて頂きたいと願っています。

願わくば、あなたたちにもそのような願いの基にそれぞれの個性が発揮されることを願っています。

最後に、すばらしい子供たちに心から御礼を申し上げます。
神様に、初代にこのような有難い道にご縁があったことに心から御礼申しあげます。

有難うございました。

2011年6月14日、ブラジル布教20年の記念の日に」 


2011年6月6日月曜日

この世には何をしに来ている




6月6日

「ここへは信心のけいこに来るところである。」
「ここ」と言うのは、「この世」と言う風に頂いたらどうだろうか。
「この世には信心のけいこに来るのである。よくけいこをしてあの世に還れ」
果して、私たちはこの世に何をしに来ているだろうか。
衣食のためにのみ働いてこの世を終えていくようなことではなかろうか。
それでは、あまりにもお粗末である。
先ほど聞かせて頂いたある震災後の話。
ある人曰く、「水を使わせて頂くことがこんなにもったいないことであった。普通に食事を頂ける事がこんなにも有難いことであった。これ以上のことを求めては、相済まないことであった」と。
衣食住に恵まれているときには分からなかった神様のおかげというものを、無くしてみて初めて分からせて頂く。
この実感が持ち続けられるおかげを頂きたいものです。





難儀、または困ったことに出会ったときに、多くの人はその原因を他に求める。
あの人が悪い、あのことがなかったら、自分はこんなことにはならなかったと。
震災に遭った人たちが異口同音に言っている事に、「これは何かの働きに違いない。それを分からせて頂きたい」と。
ある被災者が、自分の家業に使うはさみを送って頂いたと。その人が、「これで皆さんのお役に立つことができる。なぜなら私はこれで皆さんの髪を切らせて頂く、それが私の役目だと信じています」と。
果して、自分のこの世での役目はなんだろうか。
必ずあるはず、いや、なければこの世に生まれるはずがない。
この「思い切なれば、道近し」

2011年6月2日木曜日

98%のリサイクル






教祖のご理解第33節に、「お供え物とおかげはつきものではない」と教えられています。
問題は、その心根を見ておられるということです。
以前、ある人が「何をしているかが問題ではなく、何を思い、何をしているかが大事なんだ」と言われました。
お互いに、毎日いろんなことをさせて頂いているのですが、その行動の基になるものを考えよと言うことでしょう。






先日、娘がこんな話しをしていました。
ブラジルに世界一のことがあると。
何かと思えば、「コーラやジュース、ビールなどの缶のリサイクル率が98%にもなる」と言うことでした。
そこで考えること。
ブラジルではなぜそんなことが出来るのだろうか?
答えは明白。「お金になるから」である。
地球の環境を考えて出来れば最高ですが、理想と現実の大きなギャップがここになります。
もし、地球環境のことを考えてできれば、缶だけでなく、水も電気もすべてのものを大事に出来るのでしょうが・・・。
そんな心がすべての基になる世界が生まれることを願っています。

2011年5月24日火曜日

ビリグイ教会大祭参拝

13日からバリグイ公園で行われている国際手工芸展に参加し、最後の土曜、日曜を子供二人に任せて、私たちは22時に終わったバザー会場から帰り、あわてて旅行の準備をし、21日午前1時にクリチーバを出発し金光教ビリグイ教会へと向かった。
ビリグイは、サンパウロ市からやく500kmのところにあり、ラテンアメリカの中で子供靴の製造では第一位を誇る人口10万余人の町である。

5月22日、9時から金光教ビリグイ教会の「天地金乃神大祭」に参拝させて頂きました。
毎年、この祭典にはブラジル金光教の6つの教会から先生方が参加され、盛大に仕えられます。
今回は、サンパウロ教会からの団体参拝がありました。
祭場は、ほぼ満席になり、地元のたくさんの方々が参拝されました。


祭典後、モジ・ダス・クルーゼス教会の秋山誠治先生の日本語による講話で、このたびの東日本大震災の事跡に触れ、「3万人の方々が亡くなられたけれども、自殺による死者も毎年3万に以上に上るという事態に、心の助かりを頂かなければどうにもならない」ことを伝えられました。















また、その後、サンパウロ教会の岩井良一先生が、ポ語の教話にて、神様の気感にかなった繁盛のあり方として、身代と人間と達者がそろうて3代続くような内容を求められていることをご理解を通して解説され、参拝者に具体的に挙手を求めての講話の内容であった。














子供たちにとっては、毎年このお祭りに参加することで、兄弟のような他教会の子供たちとの交流があり、久々の出会いを楽しんでいた。














昼食を頂いた後、このたびの東日本大震災のためにビンゴゲームが行われ、その収益金を義援金として金光教本部を通して被災地に送られることになった。


2011年5月2日月曜日

被災地現地報告-東日本大震災

私の知人が、先日の東北大震災の起きた直後に、緊急救助隊として御用されました。その報告を聞かせて頂きましたので、少しでも現地の状況や、私たちが何を分からなければならないかをわからせて頂くことのきっかけにもなるのではないかと思い掲載します。尚、名前は匿名にさせていただきます。
長文になりますが、全文を掲載します。

「滋賀県のNです。 神様のお試しの中、日々修行を頂いています。

 滋賀県警察官の御用をさせていただき早25年が過ぎようとしています。

 3月11日に大震災が発生し、翌12日から広域緊急援助隊検視班として宮城県に出動しましたので、その時のことを報告させていただきます。

 震災が発生した11日に滋賀県でも地震による揺れがありました。テレビを点けると地震速報が流れており、その時は「大変なことがおきたなあ」と人ごとのように思っていました。時間が経つにつれ、その被害はただ事ではないことが分かってきだし、テレビに釘付け状態になりました。

 その日は仕事明けで、昼頃には自宅にいたのですが、午後2時頃に、上司から「東北に出動になると思うので、今すぐに準備して待機しておくように」との連絡が入りました。すぐに準備に取り掛かったものの、東北の状況は全く分からず、何がどうなっているのか分からず、妻に出動することを告げると、口には出しませんでしたが、顔は不安そのものでした。

 夜になり「出動は間違いないが、向こうからの情報が錯綜している。いつでも出動できるように準備しておいてくれ」と連絡が入り、11日の夜は自宅で寝ることが出来ました。

 翌12日の午前9時頃に、「今すぐに来てくれ。」と連絡が入り、仕事に行っている妻に、「今から行ってくる」とメールをして、警察本部に集合して、車両に水やカップラーメンを積み込み、すぐに出発となりました。

 出発する際に、警察本部前には、職員や同僚が並び、「頑張ってきてくれ」等々と激励を受け出発しました。

 名神高速道路を走っている時に、何台もの消防関係・自衛隊・医療関係等々の災害派遣車両が東北に向かっていました。

 ラジオから入ってくる情報を聞いているうちに、「俺は今からどんなとこに行こうとしているんだろう」と不安になりながらも、「金光様、金光様、金光様!俺には神様がついてくれている!心配ない!」と、心の中で何回も何回もつぶやいていました。

 東北自動車道は、一般車両は通行止めとなり、緊急車両や災害派遣車両だけは通行できるのですが、福島県に入ると、道路が波打っていたり、段差が出来ていたり、地震が何回もきて揺れるので、速度を出すことが出来ない状態で、宮城県に向かっていました。

 宮城県に近づくにつれ、高速道路の電気は消え、真っ暗な道路をひたすら走り、宮城県に到着しました。

 高速道路を出て一般道路に出ると、信号は消え、家の電灯も消え真っ暗でした。とりあえず、宮城県名取市にある警察学校に集合でしたので、午前2時頃に警察学校に到着すると、体育館は一般の避難者の方の避難場所となっており、車内で仮眠して、朝を迎えました。

 仮眠している最中も、地震は容赦なく襲ってきて、何回も目を覚ましました。携帯電話も圏外状態で通じず、何とかアンテナが1本立つ場所を見つけて、妻に「今、着いた」とメールをしました。

 電気もない。水も流れない。電話も通じない。という状態ですので、トイレも水を流すことができず、運よく地下水がありましたので、その水をバケツで汲んで、用便後に流していました。

 私たち滋賀県部隊は、警視庁、岐阜県警、宮城県警の部隊と一緒に、利府町での部隊活動を命ぜられました。

 利府町までの道のりで、仙台市内のコンビニ店やスーパー、ガソリンスタンド、公衆電話ボックス、ほかほか弁当、焼き鳥屋、ラーメン店には、人や車の行列が出来ており、信号は消えており、交差点には、事故を起こして動けなくなった車が、放置されている状態でした。

 私たちが赤色灯を点灯させながら現場まで行く時に、作動していない信号の交差点では、私たちに道を譲ってくれ、行列を作っている人達の中には、自分が被災しているにもかかわらず、私たちに向かって手を合わせ、「お願いします。頑張ってください。」と言っておられる人が何人もいました。

 私たちの任務は、亡くなられた方一人一人の、ご遺体を触り、死亡原因を確認して、身元を確認していくという任務でした。

 その作業場所は、野球の楽天チームのホームグランド横にある体育館でした。

 体育館に入る前に、宮城県警の方から、「心が折れると思います。でもお願いします。」と頭を下げられました。  

 その時はその言葉の意味がわかりませんでした。

 体育館に入り、館内の光景を見た瞬間、それまで想像していたものが全てなくなり、「想像を絶する」という言葉が当てはまる光景でした。

 検視を終えて、棺に入れられた亡骸が200体以上並べられ、検視の順番を待つように並べられた、泥だらけの亡骸が100体以上ありました。

 館内は停電のため、夜間に道路工事で使う照明を使い、検視台は会議用折りたたみ机を2つ並べた上に、ブルーシートをかぶせたものでした。

 亡骸が検視台に運ばれてくるのですが、逃げる途中だったのか、通帳や現金等の貴重品をリュックサックに入れて、背中に担いだままのおじいさん。

 家にいて突然の津波に遭遇したと思える、普段着姿のおばあさん。

 赤ちゃんを抱っこしていたと思える、抱っこバンドを肩からかけたままの、私と同じ歳くらいの女性。

 通学用白色ヘルメットを被ったままで、黒マジックで「亮太」と書かれた靴を履いていた、小学校3年生位の男の子。

 幼稚園服を着て胸に「みかん組 わたなべまなと」と書かれた名札を付けていた男の子・・・・

 さぞかし怖かっただろう苦しかっただろう…今おじさんがきれいにしてあげるからな。もう怖がらなくていいよ。苦しまなくていいよ …今思いだしても涙が止まりません。

 宮城県警の人が言った「こころが折れると思います。でもお願いします。」という言葉の意味が、はっきり分かりました。

 その作業をしている最中でも、地震は容赦なく襲ってきて、体育館の天井の電灯は大きく揺れ、いたる所から、「気をつけろ!そっちは大丈夫か!」と大声が聞こえて、私は、「これ以上大きな地震が来たら、絶対この体育館も崩壊する。崩壊したら俺も死ぬのか」と真剣に思いましたが、誰もその場を離れようとしませんでした。

 正直言って、この時は、「何で神様は、こんなことをするんだ!何か意味があるのか!金光様、何でなんだ!」と、神様に対して怒っていました。

 同じ作業をしている宮城県警の方が、「ここで作業している者の中には、親族が行方不明で、家を流された者もいるんです。同僚や後輩とか警察官が、今分かっているだけで、30人は死んでいます。」と教えてくれました。

 しかし宮城県警の方は、自分の服が泥だらけでビチャビチャになっても、黙々と作業を続けていました。ヘリコプターが着くたびに、亡骸は増え続け、検視をやってもやっても、検視の順番を待つ亡骸の数は、減ることはありませんでした。

 1日に15体の検視をするのが、体力的にも精神的にも、精一杯でした。

 作業を終了して、警察学校に帰り、剣道場で寝ることができるのですが、地震は相変わらず襲ってきて、揺れと寒さで目が覚める状態でした。

 2日目の朝7時に、全国から集まった各部隊が、警察学校を出発する時、学校の正門には、警察学校の生徒が並び、各部隊を見送ってくれるのですが、正門を出て道路に出た時に、一人の中年女性が、各部隊の1台1台の車両に手を合わせ、深々と頭を下げながら、「お願いします。お願いします。」と言っておられました。

 この姿を見て、自分で自分を奮い立たせました。

 食事は、1袋6枚入りの食パンを、「これで朝・昼・晩だ。水もお茶もない。耐えてくれ。」と言われ、朝にもらうのですが、被災者の姿を見れば、食べられるだけまし、という気持ちになっていました。

 宮城県に来て、手を洗えず、顔を洗えず、風呂に入らずだったのですが、帰える日が決まったものの、逃げて帰るようで、帰るのは後ろ髪を引かれる思いでした。

 帰りの途中、栃木県のサービス・エリアに入った時に、トイレの電気が点いている!

水が流れる!手を洗えた!ごはんに湯気が出ている!温かいおかず!に感動し、その感動は今でも忘れることは出来ません。普通の生活がどんなに幸せか痛感させられました。

 無事に家に帰ることが出来ました。

 今回被災地に12日から行き、いろんな意味で、いい体験ができました。

 妻に「今から行ってくる」とメールした時の、妻からの返事は、「気をつけて行ってきてねぇ!(^^)! おっさんなんだからあんまりがんばらないでねぇ(^^) 早く帰れますようにパンパン!」と返事が返ってきました。

 このメールを見て、私はすぐに「妻は泣きたいくらい心配している。いてもたってもいられないくらい心配している。」と心配させまいとして、精一杯の返事をしていることが分かりました。

 私は「今頑張らなくていつ頑張る!警察なめんなよ(^_-)-☆」と返事しました。

 災害の翌日に、様子が全く分からない被災地に行き、死ぬかもしれない思いをして、妻の有難さ家族の有難さを痛感しました。

 神様は俺にどんな修行をさせようとしているんですか? 神様は、この東北をどうしようとしているのですか?と問いました。   でも未だに答えは分かりません。

 でも一つだけ分かったことがあります。

 普通に生活することがどんなに有難いことか。

 湯気の出るご飯が食べられる。トイレに行ったら水が流れる。手が汚れたら蛇口を捻って水が出て手が洗える。布団に寝られる。電気が点く。今、生かされている等々。

 普通の生活が本当に有難い。感謝感謝です。

 フラッシュバックやPTSDという言葉をよく聞きますが、私には無縁のものと思っていました。あの光景が、24時間離れません。仕事をしていても、何をしていても、あの光景が、四六時中頭から離れません。あの光景が、突然、思い出され、涙が出てきます。

 普通の生活がどんなに有難いかわかりません。

 これから先私は「有難い」「感謝」という言葉を忘れることはないと思います。

 今回の震災で正直言って私は神様に怒りを覚えました。でも何か意味があるのかとも思っています。 自然の力。自然の脅威。人間の無力さ。つくづく思い知らされました。

 とにかく今は、普通の生活がどんなに有難いか、感謝!感謝!しかありません。

 本来なら、自分の口から体験談をお話ししたいところですが、遠方のためメールにさせていただきました。」

和賀心デービデオ投稿

新型コロナウィルスが世界中に蔓延する中、外出やイベントの規制が行われている。 そういう状況を踏まえて、金光教クリチーバ教会でも日曜日の「和賀心デー」の祭典を、実況中継することになりました。 https://www.youtube.com/watch?v=PYcdTko50jo...