2011年12月27日火曜日
千年の釘にいどむ
2011年11月24日木曜日
昔、緑の地獄と言われたアリケーメス
赤土の道はアスファルトになり、きれいに整備されていました。
2011年11月11日金曜日
知ってました?
2011年10月25日火曜日
へぇー!!! 知らなかった。
2011年10月5日水曜日
行ってきました!
2011年9月12日月曜日
グループ若葉祝福を受ける
サンパウロ新聞に掲載された文をそのまま掲載します。
若葉太鼓と若葉よさこいを招待 クリチーバ総領事公邸で栄誉祝福 11/09/01 (11:18)
【既報関連、堀内登クリチーバ支局長】在クリチーバ総領事館の山口登総領事は8月19日夜、「クリチーバ若
葉太鼓」及び「若葉よさこいソーラン」グループを同公邸に招待し、夕食会を催した。これは去る7月31日に聖州プレジデンテ・プルデンテ市で開催された第8回全伯太鼓選手権大会で、南パラナから参加しジュニア部門で優勝した「若葉太鼓」の今日までの研さんと努力をたたえたもの。
また同日に聖市で行われた第9回ブラジルよさこいソーラン大会の大人の部で3位に入賞した「若葉よさこいソーラン」一行も招待を受けた。 なお、ジュニア部門(12~17歳)で優勝した若葉太鼓(12人)は来年3月25日、群馬県前林市で行われる全日本選手権大会にブラジル代表として出場する予定だという。
山口総領事は「皆さんおめでとうございます。家族や周囲の人たちに支えられながら、ブラジルに日本文化を広げるために日々努力、練習や活動をしている皆様に感謝します。私たちはこれからも応援をしていきまますので、今後もさらなる技術を高めていくように頑張って下さい」と入賞の快挙をたたえ激励した。 同夜は若葉太鼓グループのほか、石井ジョルジ文化援護協会会長、同平松評議長、村上調整役夫妻及び原ルイ州都市圏調整局長ら約50人が出席して、同グループの栄誉を祝福した。
若葉太鼓がクリチーバ市民の前に姿を見せたのは、2004年初め頃。1991年に本庁からブラジルに派遣され、ロンドニア州で金光教の布教活動の後、99年にクリチーバ市に移転した梶原勝行・佳代夫妻の子息たちが初期のメンバーだった。
寒風が吹きぬける市内の日本公園で懸命に和太鼓の練習に励む5人の少年少女たちの姿が市民の目に触れ、その後、山脇ジョルジ文協会長(当時)の目にも止まった。それ以来、同協会の傘下団体として文協の空場所を利用して練習に励み、文協の各種行事やほかの公式行事にも参加するようになった。
若葉太鼓の育ての親である梶原さんは教えの一つとして当時、「最近の日本では色々な面で恵まれ過ぎ、平和な生活に慣れて意欲や目的を持てない少年少女た ちが増えている。教会では若葉学校の活動を通じて、それぞれが自分の心に確立していくことを目指した取り組みをしている」と語っていた。
5人の兄妹から始められた若葉太鼓の仲間も年々希望者が増え、今では50人近いグループに成長した。文協や周囲の支援を受けながら期待通りの努力を重ね、研さんを積んできた。
一行は総領事公邸からの初めての招待に感動しながら歓談し、明日への希望を燃やしながら楽しいひと時を過ごしていた。
2011年9月1日付
2011年8月3日水曜日
EH! CAMPEAO!!
第8回ブラジル太鼓選手権がサンパウロ州の奥地にあるプレジデンチ・プルデンチ市にて行われ、同日、第9回よさこいソーラン大会がサンパウロ市のVia Funshalを会場に行われました。
2011年6月15日水曜日
記念の日
早いもので20年になりました。
「今日(2011年6月14日)は、私たちがブラジルに来て20年の記念の日です。
これから、どれだけお生かし頂き、御用に使って頂けるかは分かりませんが、子供たちに伝えておきたいこと、また、お父さんがどういうことを考えていたかを知ってもらおうと思い、みんなにお礼の気持ちをこめて言葉を述べてみたいと思います。
1991年6月14日、私たちはサンパウロ、グァルーリョス空港へ降り立ちました。
長男佳行9歳、次男光徳7歳、三男安正4歳、4男宙2歳。そして佳代のお腹に長女の久保美がいました。
それから、モジダスクルーゼスの田代さん・ジョアキンさん兄弟のコンビに乗って、ビリグイ教会へ向かいました。
道中、サンパウロ支部の方たちが準備してくださった弁当を頂くのに道路脇によって食事をいただきましたが、近くに若者数人が笑いながら話をしているのを聞きながら、そして真っ黒い犬が吼えるのを聞き、とてつもなく不安になったのを覚えています。
ビリグイ教会に夕方、無事に到着。それからビリグイのご信者さんがたがフェスタをして下さいました。
その時、私はご飯を頂きながらフォークの間からご飯がこぼれるのを、中風が出たのかと思いました。実は、その当時、ビリグイでは日本米を頂くことはなかったのだと後で気がつきました。
ビリグイで3ヶ月間お世話になり、9月11日、私たちの布教地であったロンドニア教会へ向かいました。
ポルトベーリョからタクシーに乗ってアリケーメスへ向かいました。道中はジャングルを切り開いたような中にでこぼこ道が限りなく続いていました。
本当にここに来て良かったのだろうかと、限りなく続くまっすぐな道が余計私を不安にさせていました。
子供たちは、また佳代はどんな気持ちだろうか。不安になっていないだろうかと、後に座っている佳代の様子を伺うと、何とぐっすりと眠っていました。
途端に、私の心に安心が生まれました。
アリケーメスの街に入って、タクシーの運転手が住所を手がかりに道で遊んでいる子に家を尋ねたら、すぐ近くでした。不思議なことに、その子は、現在もクリチーバで信心をしている片山さんの息子、マルセルでした。
言葉も何も分からない中で、子供たちが元気に、カルチャーショックと言うようなものも感じないで、ブラジル社会に溶け込んでくれたことに心からお礼を言いたいと思います。
アリケーメスでの8年間。その間、なれないブラジル社会に憤りを感じることも多々あったけれども、いつも初代が教えてくれていたことを思うと解決がつきました。
その中には、久保美が死にそうになったこともあり、また、光徳が木から落ちて腕を折ったことがあったり、大河は、どういうわけか腕や脇に膿がたまったりと思いもかけないことがありましたが、おかげでみんな元気に、また素直に育ってくれました。
神様を杖につき、お縋りせねば通れないことばかりでしたが、いつも感動の中での8年間であったと思います。
そして、ブラジルにどうでもポルトガル語による教典が必要であるとの熱願が、クリチーバへ来ることになりました。
その働きの中には、アダルベルトの一言も神様の働きの中にありました。
クリチーバでは、若葉学校を創設して、子供たちが素直に協力してくれ、こういう大きなことになるとは思ってもいませんでしたが、まだ、不十分ではありますがおかげを頂いています。
これからも、是非、大きな願いを持って世の中のお役に立つ人になってもらいたいと思います。
それぞれの道は違っても、願いは同じところに持たせて頂きたい。お父さんは、このブラジルに和賀心時代を創るために来ました。もちろん、この願いはまだまだ少しも成就していませんが、少しずつ金光教を理解してくれる人が出てきたことは事実です。
みんながこれから色んなことに出会い、色んな困難にぶつかることもあるだろうと思いますが、そんな時に、是非、人間としての原点に立ち返ってください。
私たちは何をしにこの世に生まれてきたのだろう。どこに向かっていこうとしているのだろう。
私は、これからもブラジルの明るい将来のお役に立つために一生懸命、成り行きを大切に、神様の働きを頂きながらお役に立たせて頂きたいと願っています。
願わくば、あなたたちにもそのような願いの基にそれぞれの個性が発揮されることを願っています。
最後に、すばらしい子供たちに心から御礼を申し上げます。
神様に、初代にこのような有難い道にご縁があったことに心から御礼申しあげます。
有難うございました。
2011年6月14日、ブラジル布教20年の記念の日に」
2011年6月6日月曜日
この世には何をしに来ている
2011年6月2日木曜日
98%のリサイクル
問題は、その心根を見ておられるということです。
以前、ある人が「何をしているかが問題ではなく、何を思い、何をしているかが大事なんだ」と言われました。
そこで考えること。
2011年5月24日火曜日
ビリグイ教会大祭参拝
毎年、この祭典にはブラジル金光教の6つの教会から先生方が参加され、盛大に仕えられます。
今回は、サンパウロ教会からの団体参拝がありました。
祭場は、ほぼ満席になり、地元のたくさんの方々が参拝されました。
2011年5月2日月曜日
被災地現地報告-東日本大震災
私の知人が、先日の東北大震災の起きた直後に、緊急救助隊として御用されました。その報告を聞かせて頂きましたので、少しでも現地の状況や、私たちが何を分からなければならないかをわからせて頂くことのきっかけにもなるのではないかと思い掲載します。尚、名前は匿名にさせていただきます。
長文になりますが、全文を掲載します。
「滋賀県のNです。 神様のお試しの中、日々修行を頂いています。
滋賀県警察官の御用をさせていただき早25年が過ぎようとしています。
3月11日に大震災が発生し、翌12日から広域緊急援助隊検視班として宮城県に出動しましたので、その時のことを報告させていただきます。
震災が発生した11日に滋賀県でも地震による揺れがありました。テレビを点けると地震速報が流れており、その時は「大変なことがおきたなあ」と人ごとのように思っていました。時間が経つにつれ、その被害はただ事ではないことが分かってきだし、テレビに釘付け状態になりました。
その日は仕事明けで、昼頃には自宅にいたのですが、午後2時頃に、上司から「東北に出動になると思うので、今すぐに準備して待機しておくように」との連絡が入りました。すぐに準備に取り掛かったものの、東北の状況は全く分からず、何がどうなっているのか分からず、妻に出動することを告げると、口には出しませんでしたが、顔は不安そのものでした。
夜になり「出動は間違いないが、向こうからの情報が錯綜している。いつでも出動できるように準備しておいてくれ」と連絡が入り、11日の夜は自宅で寝ることが出来ました。
翌12日の午前9時頃に、「今すぐに来てくれ。」と連絡が入り、仕事に行っている妻に、「今から行ってくる」とメールをして、警察本部に集合して、車両に水やカップラーメンを積み込み、すぐに出発となりました。
出発する際に、警察本部前には、職員や同僚が並び、「頑張ってきてくれ」等々と激励を受け出発しました。
名神高速道路を走っている時に、何台もの消防関係・自衛隊・医療関係等々の災害派遣車両が東北に向かっていました。
ラジオから入ってくる情報を聞いているうちに、「俺は今からどんなとこに行こうとしているんだろう」と不安になりながらも、「金光様、金光様、金光様!俺には神様がついてくれている!心配ない!」と、心の中で何回も何回もつぶやいていました。
東北自動車道は、一般車両は通行止めとなり、緊急車両や災害派遣車両だけは通行できるのですが、福島県に入ると、道路が波打っていたり、段差が出来ていたり、地震が何回もきて揺れるので、速度を出すことが出来ない状態で、宮城県に向かっていました。
宮城県に近づくにつれ、高速道路の電気は消え、真っ暗な道路をひたすら走り、宮城県に到着しました。
高速道路を出て一般道路に出ると、信号は消え、家の電灯も消え真っ暗でした。とりあえず、宮城県名取市にある警察学校に集合でしたので、午前2時頃に警察学校に到着すると、体育館は一般の避難者の方の避難場所となっており、車内で仮眠して、朝を迎えました。
仮眠している最中も、地震は容赦なく襲ってきて、何回も目を覚ましました。携帯電話も圏外状態で通じず、何とかアンテナが1本立つ場所を見つけて、妻に「今、着いた」とメールをしました。
電気もない。水も流れない。電話も通じない。という状態ですので、トイレも水を流すことができず、運よく地下水がありましたので、その水をバケツで汲んで、用便後に流していました。
私たち滋賀県部隊は、警視庁、岐阜県警、宮城県警の部隊と一緒に、利府町での部隊活動を命ぜられました。
利府町までの道のりで、仙台市内のコンビニ店やスーパー、ガソリンスタンド、公衆電話ボックス、ほかほか弁当、焼き鳥屋、ラーメン店には、人や車の行列が出来ており、信号は消えており、交差点には、事故を起こして動けなくなった車が、放置されている状態でした。
私たちが赤色灯を点灯させながら現場まで行く時に、作動していない信号の交差点では、私たちに道を譲ってくれ、行列を作っている人達の中には、自分が被災しているにもかかわらず、私たちに向かって手を合わせ、「お願いします。頑張ってください。」と言っておられる人が何人もいました。
私たちの任務は、亡くなられた方一人一人の、ご遺体を触り、死亡原因を確認して、身元を確認していくという任務でした。
その作業場所は、野球の楽天チームのホームグランド横にある体育館でした。
体育館に入る前に、宮城県警の方から、「心が折れると思います。でもお願いします。」と頭を下げられました。
その時はその言葉の意味がわかりませんでした。
体育館に入り、館内の光景を見た瞬間、それまで想像していたものが全てなくなり、「想像を絶する」という言葉が当てはまる光景でした。
検視を終えて、棺に入れられた亡骸が200体以上並べられ、検視の順番を待つように並べられた、泥だらけの亡骸が100体以上ありました。
館内は停電のため、夜間に道路工事で使う照明を使い、検視台は会議用折りたたみ机を2つ並べた上に、ブルーシートをかぶせたものでした。
亡骸が検視台に運ばれてくるのですが、逃げる途中だったのか、通帳や現金等の貴重品をリュックサックに入れて、背中に担いだままのおじいさん。
家にいて突然の津波に遭遇したと思える、普段着姿のおばあさん。
赤ちゃんを抱っこしていたと思える、抱っこバンドを肩からかけたままの、私と同じ歳くらいの女性。
通学用白色ヘルメットを被ったままで、黒マジックで「亮太」と書かれた靴を履いていた、小学校3年生位の男の子。
幼稚園服を着て胸に「みかん組 わたなべまなと」と書かれた名札を付けていた男の子・・・・
さぞかし怖かっただろう苦しかっただろう…今おじさんがきれいにしてあげるからな。もう怖がらなくていいよ。苦しまなくていいよ …今思いだしても涙が止まりません。
宮城県警の人が言った「こころが折れると思います。でもお願いします。」という言葉の意味が、はっきり分かりました。
その作業をしている最中でも、地震は容赦なく襲ってきて、体育館の天井の電灯は大きく揺れ、いたる所から、「気をつけろ!そっちは大丈夫か!」と大声が聞こえて、私は、「これ以上大きな地震が来たら、絶対この体育館も崩壊する。崩壊したら俺も死ぬのか」と真剣に思いましたが、誰もその場を離れようとしませんでした。
正直言って、この時は、「何で神様は、こんなことをするんだ!何か意味があるのか!金光様、何でなんだ!」と、神様に対して怒っていました。
同じ作業をしている宮城県警の方が、「ここで作業している者の中には、親族が行方不明で、家を流された者もいるんです。同僚や後輩とか警察官が、今分かっているだけで、30人は死んでいます。」と教えてくれました。
しかし宮城県警の方は、自分の服が泥だらけでビチャビチャになっても、黙々と作業を続けていました。ヘリコプターが着くたびに、亡骸は増え続け、検視をやってもやっても、検視の順番を待つ亡骸の数は、減ることはありませんでした。
1日に15体の検視をするのが、体力的にも精神的にも、精一杯でした。
作業を終了して、警察学校に帰り、剣道場で寝ることができるのですが、地震は相変わらず襲ってきて、揺れと寒さで目が覚める状態でした。
2日目の朝7時に、全国から集まった各部隊が、警察学校を出発する時、学校の正門には、警察学校の生徒が並び、各部隊を見送ってくれるのですが、正門を出て道路に出た時に、一人の中年女性が、各部隊の1台1台の車両に手を合わせ、深々と頭を下げながら、「お願いします。お願いします。」と言っておられました。
この姿を見て、自分で自分を奮い立たせました。
食事は、1袋6枚入りの食パンを、「これで朝・昼・晩だ。水もお茶もない。耐えてくれ。」と言われ、朝にもらうのですが、被災者の姿を見れば、食べられるだけまし、という気持ちになっていました。
宮城県に来て、手を洗えず、顔を洗えず、風呂に入らずだったのですが、帰える日が決まったものの、逃げて帰るようで、帰るのは後ろ髪を引かれる思いでした。
帰りの途中、栃木県のサービス・エリアに入った時に、トイレの電気が点いている!
水が流れる!手を洗えた!ごはんに湯気が出ている!温かいおかず!に感動し、その感動は今でも忘れることは出来ません。普通の生活がどんなに幸せか痛感させられました。
無事に家に帰ることが出来ました。
今回被災地に12日から行き、いろんな意味で、いい体験ができました。
妻に「今から行ってくる」とメールした時の、妻からの返事は、「気をつけて行ってきてねぇ!(^^)! おっさんなんだからあんまりがんばらないでねぇ(^^) 早く帰れますようにパンパン!」と返事が返ってきました。
このメールを見て、私はすぐに「妻は泣きたいくらい心配している。いてもたってもいられないくらい心配している。」と心配させまいとして、精一杯の返事をしていることが分かりました。
私は「今頑張らなくていつ頑張る!警察なめんなよ(^_-)-☆」と返事しました。
災害の翌日に、様子が全く分からない被災地に行き、死ぬかもしれない思いをして、妻の有難さ家族の有難さを痛感しました。
神様は俺にどんな修行をさせようとしているんですか? 神様は、この東北をどうしようとしているのですか?と問いました。 でも未だに答えは分かりません。
でも一つだけ分かったことがあります。
普通に生活することがどんなに有難いことか。
湯気の出るご飯が食べられる。トイレに行ったら水が流れる。手が汚れたら蛇口を捻って水が出て手が洗える。布団に寝られる。電気が点く。今、生かされている等々。
普通の生活が本当に有難い。感謝感謝です。
フラッシュバックやPTSDという言葉をよく聞きますが、私には無縁のものと思っていました。あの光景が、24時間離れません。仕事をしていても、何をしていても、あの光景が、四六時中頭から離れません。あの光景が、突然、思い出され、涙が出てきます。
普通の生活がどんなに有難いかわかりません。
これから先私は「有難い」「感謝」という言葉を忘れることはないと思います。
今回の震災で正直言って私は神様に怒りを覚えました。でも何か意味があるのかとも思っています。 自然の力。自然の脅威。人間の無力さ。つくづく思い知らされました。
とにかく今は、普通の生活がどんなに有難いか、感謝!感謝!しかありません。
本来なら、自分の口から体験談をお話ししたいところですが、遠方のためメールにさせていただきました。」
2011年4月28日木曜日
開教5年記念祭
神様のすさまじいばかりのおかばいを頂き、クリチーバ教会の開教5年祭を仕えさせて頂きました。
ブラジル金光教の先生方の参列、参拝を頂き賑々しいお祭りとなりました。
2ヶ月ほど前に隣人より教会の桜の木が大きくなりすぎ、隣との境である塀にひびが入りだしているので、どうにかしてほしいという願いがありました。
ブラジルでは、自分の所の樹であっても切るには許可が要り、市役所に料金を払って伐採許可を取らなければなりません。一本の樹を切ったら二本植えるようになっています。
許可を取り、ムチラゥンという一斉御用のようなことがあり、信者さん、友人が手伝ってくれ、大きな樹を切ってくれました。
ところが、切った後に市役所に連絡をして片付けてくれるように頼んだところ、返事はいいのですが、待っても待っても来てくれません。
だんだんと日にちが近づいてきて、どうしようかという状態でしたが、これも私たちの信心の内容が足りぬからと受けていました。
それでも、教会の前に山のような切った樹がありますから、困っていました。
前々日に義妹たちも無事に着き、当日には先生方も到着されましたが、それでも樹は残っていました。
ところが、祭典一時間前に市役所のトラックが着ききれいに片付けてくれました。本当はこの日は国民の休日で市役所は働きませんが、おかげできれいになりました。
そうして迎えたご大祭には、ニッケイ会長、市会議員を始め、100名あまりの参拝を頂き、賑々しいものとなりました。
グループ若葉代表玉串、参拝者代表玉串、そして先生方の写真を雑誌記者の依頼で撮ることになりました。
今回の記念祭のテーマは、天地の大恩ということでした。当たり前という名の奇跡的なおかげをおかげと気づかせて頂くおかげを頂こうと皆さんにお話させて頂きました。
ぎりぎりのおかげの中には、今回の記念出版のこともあります。これは、初代のご理解の一日を選んで翻訳したものです。どうでもブラジルの地に初代の宗教理念をわかって頂きたい、という思いからCiencia Wagakokoro(和賀心学)というタイトルで作らせて頂きました。
この本を繰り返し読んで頂き、人間として何を求めなければならないのか、何をすればいいのかをわかって頂ければと切に願っています。
参拝者の中には、浄土宗の大江田開教師、本門仏立宗のニルトン師の参拝もあり花を添えて頂きました。
ご直会のあと、このたびの東北大震災の復興支援として、ビンゴ大会をさせて頂き、たくさんの方が協力して頂き、ご本部を通してお願いするようにしました。
2011年4月13日水曜日
当たり前という名の奇跡
2011年2月7日月曜日
目的に向かっての第一歩
5日、6日とサンパウロよりブラジル太鼓連盟のリーダーによる講習会が行われました。
とりわけ、7月に行われる恒例のブラジル太鼓選手権に向けての準備的な取り組みとしての企画で、KOUKI,WENDYと言う二人のリーダーに来て頂きました。
土台のない家は天気の良い日は問題もそうないけれども、ちょっと強い風や、激しい雨になると倒れてしまう。
目的に向かっての第一歩
5日、6日とサンパウロよりブラジル太鼓連盟のリーダーによる講習会が行われました。
とりわけ、7月に行われる恒例のブラジル太鼓選手権に向けての準備的な取り組みとしての企画で、KOUKI,WENDYと言う二人のリーダーに来て頂きました。
土台のない家は天気の良い日は問題もそうないけれども、ちょっと強い風や、激しい雨になると倒れてしまう。
2011年2月1日火曜日
どしゃ降り
8時ごろになってにわかに空にまっ黒な雲が現れた。と思ったら、すさまじい雨が降り出した。バケツをひっくり返したようなとはこの事であろう。
2011年1月29日土曜日
はじめてのお使い
2011年1月3日月曜日
新年の祭典
2011年1月2日、14時から新年のお祭りを仕えさせて頂きました。
このお祭りでは、毎
和賀心デービデオ投稿
新型コロナウィルスが世界中に蔓延する中、外出やイベントの規制が行われている。 そういう状況を踏まえて、金光教クリチーバ教会でも日曜日の「和賀心デー」の祭典を、実況中継することになりました。 https://www.youtube.com/watch?v=PYcdTko50jo&...
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日本の小学校5年生の教科書に、『千年の釘にいどむ』と題した、土佐派鍛冶師 白鷹幸伯師(しらたかゆきのり)の思いをつづった文があるという。 飛鳥時代に建立されたといわれる法隆寺や奈良時代に建立された薬師寺は、千数百年経った今も健在で、木造建築では世界に類を見ないものである。 そこに...
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13日からバリグイ公園で行われている国際手工芸展に参加し、最後の土曜、日曜を子供二人に任せて、私たちは22時に終わったバザー会場から帰り、あわてて旅行の準備をし、21日午前1時にクリチーバを出発し金光教ビリグイ教会へと向かった。 ビリグイは、サンパウロ市からやく500kmのところ...
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5月25・26の両日、ビリグイ教会において教祖130年記念南米カンファレンスが開催されました。 前日の準備の段階では、開催が危ぶまれた天候でしたが、おかげで両日ともお天気のお繰り合わせを頂きました。 当日は、サンパウロ教会、モジダスクルーゼス教会、ブタンタン教会、リオデジャ...