2011年5月24日火曜日

ビリグイ教会大祭参拝

13日からバリグイ公園で行われている国際手工芸展に参加し、最後の土曜、日曜を子供二人に任せて、私たちは22時に終わったバザー会場から帰り、あわてて旅行の準備をし、21日午前1時にクリチーバを出発し金光教ビリグイ教会へと向かった。
ビリグイは、サンパウロ市からやく500kmのところにあり、ラテンアメリカの中で子供靴の製造では第一位を誇る人口10万余人の町である。

5月22日、9時から金光教ビリグイ教会の「天地金乃神大祭」に参拝させて頂きました。
毎年、この祭典にはブラジル金光教の6つの教会から先生方が参加され、盛大に仕えられます。
今回は、サンパウロ教会からの団体参拝がありました。
祭場は、ほぼ満席になり、地元のたくさんの方々が参拝されました。


祭典後、モジ・ダス・クルーゼス教会の秋山誠治先生の日本語による講話で、このたびの東日本大震災の事跡に触れ、「3万人の方々が亡くなられたけれども、自殺による死者も毎年3万に以上に上るという事態に、心の助かりを頂かなければどうにもならない」ことを伝えられました。















また、その後、サンパウロ教会の岩井良一先生が、ポ語の教話にて、神様の気感にかなった繁盛のあり方として、身代と人間と達者がそろうて3代続くような内容を求められていることをご理解を通して解説され、参拝者に具体的に挙手を求めての講話の内容であった。














子供たちにとっては、毎年このお祭りに参加することで、兄弟のような他教会の子供たちとの交流があり、久々の出会いを楽しんでいた。














昼食を頂いた後、このたびの東日本大震災のためにビンゴゲームが行われ、その収益金を義援金として金光教本部を通して被災地に送られることになった。


2011年5月2日月曜日

被災地現地報告-東日本大震災

私の知人が、先日の東北大震災の起きた直後に、緊急救助隊として御用されました。その報告を聞かせて頂きましたので、少しでも現地の状況や、私たちが何を分からなければならないかをわからせて頂くことのきっかけにもなるのではないかと思い掲載します。尚、名前は匿名にさせていただきます。
長文になりますが、全文を掲載します。

「滋賀県のNです。 神様のお試しの中、日々修行を頂いています。

 滋賀県警察官の御用をさせていただき早25年が過ぎようとしています。

 3月11日に大震災が発生し、翌12日から広域緊急援助隊検視班として宮城県に出動しましたので、その時のことを報告させていただきます。

 震災が発生した11日に滋賀県でも地震による揺れがありました。テレビを点けると地震速報が流れており、その時は「大変なことがおきたなあ」と人ごとのように思っていました。時間経つにつれ、その被害はただ事ではないことが分かってきだし、テレビに釘付け状態になりました。

 その日は仕事明けで、昼頃には自宅にいたのですが、午後2時頃に、上司から「東北に出動になると思うので、今すぐに準備して待機しておくように」との連絡が入りました。すぐに準備に取り掛かったものの、東北の状況は全く分からず、何がどうなっているのか分からず、妻に出動することを告げると、口には出しませんでしたが、顔は不安そのものでした。

 夜になり「出動は間違いないが、向こうからの情報が錯綜している。いつでも出動できるように準備しておいてくれ」と連絡が入り、11日の夜は自宅で寝ることが出来ました。

 翌12日の午前9時頃に、「今すぐに来てくれ。」と連絡が入り、仕事に行っている妻に、「今から行ってくる」とメールをして、警察本部に集合して、車両に水やカップラーメンを積み込み、すぐに出発となりました。

 出発する際に、警察本部前には、職員や同僚が並び、「頑張ってきてくれ」等々と激励を受け出発しました。

 名神高速道路を走っている時に、何台もの消防関係・自衛隊・医療関係等々の災害派遣車両が東北に向かっていました。

 ラジオから入ってくる情報を聞いているうちに、「俺は今からどんなとこに行こうとしているんだろう」と不安になりながらも、「金光様、金光様、金光様!俺には神様がついてくれている!心配ない!」と、心の中で何回も何回もつぶやいていました。

 東北自動車道は、一般車両は通行止めとなり、緊急車両や災害派遣車両だけは通行できるのですが、福島県に入ると、道路が波打っていたり、段差が出来ていたり、地震が何回もきて揺れるので、速度を出すことが出来ない状態で、宮城県に向かっていました。

 宮城県に近づくにつれ、高速道路の電気は消え、真っ暗な道路をひたすら走り、宮城県に到着しました。

 高速道路を出て一般道路に出ると、信号は消え、家の電灯も消え真っ暗でした。とりあえず、宮城県名取市にある警察学校に集合でしたので、午前2時頃に警察学校に到着すると、体育館は一般の避難者の方の避難場所となっており、車内で仮眠して、朝を迎えました。

 仮眠している最中も、地震は容赦なく襲ってきて、何回も目を覚ましました。携帯電話も圏外状態で通じず、何とかアンテナが1本立つ場所を見つけて、妻に「今、着いた」とメールをしました。

 電気もない。水も流れない。電話も通じない。という状態ですので、トイレも水を流すことができず、運よく地下水がありましたので、その水をバケツで汲んで、用便後に流していました。

 私たち滋賀県部隊は、警視庁、岐阜県警、宮城県警の部隊と一緒に、利府町での部隊活動を命ぜられました。

 利府町までの道のりで、仙台市内のコンビニ店やスーパー、ガソリンスタンド、公衆電話ボックス、ほかほか弁当、焼き鳥屋、ラーメン店には、人や車の行列が出来ており、信号は消えており、交差点には、事故を起こして動けなくなった車が、放置されている状態でした。

 私たちが赤色灯を点灯させながら現場まで行く時に、作動していない信号の交差点では、私たちに道を譲ってくれ、行列を作っている人達の中には、自分が被災しているにもかかわらず、私たちに向かって手を合わせ、「お願いします。頑張ってください。」と言っておられる人が何人もいました。

 私たちの任務は、亡くなられた方一人一人の、ご遺体を触り、死亡原因を確認して、身元を確認していくという任務でした。

 その作業場所は、野球の楽天チームのホームグランド横にある体育館でした。

 体育館に入る前に、宮城県警の方から、「心が折れると思います。でもお願いします。」と頭を下げられました。  

 その時はその言葉の意味がわかりませんでした。

 体育館に入り、館内の光景を見た瞬間、それまで想像していたものが全てなくなり、「想像を絶する」という言葉が当てはまる光景でした。

 検視を終えて、棺に入れられた亡骸が200体以上並べられ、検視の順番を待つように並べられた、泥だらけの亡骸が100体以上ありました。

 館内は停電のため、夜間に道路工事で使う照明を使い、検視台は会議用折りたたみ机を2つ並べた上に、ブルーシートをかぶせたものでした。

 亡骸が検視台に運ばれてくるのですが、逃げる途中だったのか、通帳や現金等の貴重品をリュックサックに入れて、背中に担いだままのおじいさん。

 家にいて突然の津波に遭遇したと思える、普段着姿のおばあさん。

 赤ちゃんを抱っこしていたと思える、抱っこバンドを肩からかけたままの、私と同じ歳くらいの女性。

 通学用白色ヘルメットを被ったままで、黒マジックで「亮太」と書かれた靴を履いていた、小学校3年生位の男の子。

 幼稚園服を着て胸に「みかん組 わたなべまなと」と書かれた名札を付けていた男の子・・・・

 さぞかし怖かっただろう苦しかっただろう…今おじさんがきれいにしてあげるからな。もう怖がらなくていいよ。苦しまなくていいよ …今思いだしても涙が止まりません。

 宮城県警の人が言った「こころが折れると思います。でもお願いします。」という言葉の意味が、はっきり分かりました。

 その作業をしている最中でも、地震は容赦なく襲ってきて、体育館の天井の電灯は大きく揺れ、いたる所から、「気をつけろ!そっちは大丈夫か!」と大声が聞こえて、私は、「これ以上大きな地震が来たら、絶対この体育館も崩壊する。崩壊したら俺も死ぬのか」と真剣に思いましたが、誰もその場を離れようとしませんでした。

 正直言って、この時は、「何で神様は、こんなことをするんだ!何か意味があるのか!金光様、何でなんだ!」と、神様に対して怒っていました。

 同じ作業をしている宮城県警の方が、「ここで作業している者の中には、親族が行方不明で、家を流された者もいるんです。同僚や後輩とか警察官が、今分かっているだけで、30人は死んでいます。」と教えてくれました。

 しかし宮城県警の方は、自分の服が泥だらけでビチャビチャになっても、黙々と作業を続けていました。ヘリコプターが着くたびに、亡骸は増え続け、検視をやってもやっても、検視の順番を待つ亡骸の数は、減ることはありませんでした。

 1日に15体の検視をするのが、体力的にも精神的にも、精一杯でした。

 作業を終了して、警察学校に帰り、剣道場で寝ることができるのですが、地震は相変わらず襲ってきて、揺れと寒さで目が覚める状態でした。

 2日目の朝7時に、全国から集まった各部隊が、警察学校を出発する時、学校の正門には、警察学校の生徒が並び、各部隊を見送ってくれるのですが、正門を出て道路に出た時に、一人の中年女性が、各部隊の1台1台の車両に手を合わせ、深々と頭を下げながら、「お願いします。お願いします。」と言っておられました。

 この姿を見て、自分で自分を奮い立たせました。

 食事は、1袋6枚入りの食パンを、「これで朝・昼・晩だ。水もお茶もない。耐えてくれ。」と言われ、朝にもらうのですが、被災者の姿を見れば、食べられるだけまし、という気持ちになっていました。

 宮城県に来て、手を洗えず、顔を洗えず、風呂に入らずだったのですが、帰える日が決まったものの、逃げて帰るようで、帰るのは後ろ髪を引かれる思いでした。

 帰りの途中、栃木県のサービス・エリアに入った時に、トイレの電気が点いている!

水が流れる!手を洗えた!ごはんに湯気が出ている!温かいおかず!に感動し、その感動は今でも忘れることは出来ません。普通の生活がどんなに幸せか痛感させられました。

 無事に家に帰ることが出来ました。

 今回被災地に12日から行き、いろんな意味で、いい体験ができました。

 妻に「今から行ってくる」とメールした時の、妻からの返事は、「気をつけて行ってきてねぇ!(^^)! おっさんなんだからあんまりがんばらないでねぇ(^^) 早く帰れますようにパンパン!」と返事が返ってきました。

 このメールを見て、私はすぐに「妻は泣きたいくらい心配している。いてもたってもいられないくらい心配している。」と心配させまいとして、精一杯の返事をしていることが分かりました。

 私は「今頑張らなくていつ頑張る!警察なめんなよ(^_-)-☆」と返事しました。

 災害の翌日に、様子が全く分からない被災地に行き、死ぬかもしれない思いをして、妻の有難さ家族の有難さを痛感しました。

 神様は俺にどんな修行をさせようとしているんですか? 神様は、この東北をどうしようとしているのですか?と問いました。   でも未だに答えは分かりません。

 でも一つだけ分かったことがあります。

 普通に生活することがどんなに有難いことか。

 湯気の出るご飯が食べられる。トイレに行ったら水が流れる。手が汚れたら蛇口を捻って水が出て手が洗える。布団に寝られる。電気が点く。今、生かされている等々。

 普通の生活が本当に有難い。感謝感謝です。

 フラッシュバックやPTSDという言葉をよく聞きますが、私には無縁のものと思っていました。あの光景が、24時間離れません。仕事をしていても、何をしていても、あの光景が、四六時中頭から離れません。あの光景が、突然、思い出され、涙が出てきます。

 普通の生活がどんなに有難いかわかりません。

 これから先私は「有難い」「感謝」という言葉を忘れることはないと思います。

 今回の震災で正直言って私は神様に怒りを覚えました。でも何か意味があるのかとも思っています。 自然の力。自然の脅威。人間の無力さ。つくづく思い知らされました。

 とにかく今は、普通の生活がどんなに有難いか、感謝!感謝!しかありません。

 本来なら、自分の口から体験談をお話ししたいところですが、遠方のためメールにさせていただきました。」